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プラユキ師の「気づきの瞑想にはげむ会」レポート6

(続きです)

質問 自己決定していくにしても、実存としての私を知らないといけないってことなんでしょうか。
「あるがままの自分を受け入れる」ということと「ダメな自分を受け入れる」って違うということですか?

答え そうですね。「ダメな自分」っていうのは瞑想的に自分にコミットしていないっていえるよね。だって、瞑想的に見ていたら自分の実存の中に「悪い私」なんてないって分かるはずでしょう?
「こういう自分が嫌だ→イライラ」は無明によって起きている反応で、「悪い私」が存在するわけではないよね。

プリントに引用された7月5日の発言は、有名ブロガーの「はあちゅう」さんのツイッターでの発言に絡めてのものでした。

「ハンドルネームやプロフィールに「ゴミ」とか「クズ」って書いてる人がつぶやく内容って本当にゴミとかクズのような汚い言葉の羅列だから、プロフィールひとつで人格がわかるし、自分に汚い言葉使っちゃダメだと思った。自分を表す言葉が自分になっていく。」(2016年9月20日はあちゅう氏ツイッター@ha_chuより)

はあちゅうさんの指摘は仏教的に的を得ている。ハンドルネームやプロフは「自我概念」。自我とは実際の言動など下位次元のアクション群を高次に組織化して創発したものだが、この次元への同一化が成立すると〈私〉は実在化し、実際の自身の行動様式への因果効力が発生し、自由度は制限されてしまうのだ。
→瞑想実践がなぜ、私たちに「自由」をもたらすかといえば、今ここで「何が起こっているか?」という非主体的な事実認知を徹底していく作業により、すでに構築され固定化してしまっている「自我概念」を解体することができ、それによって自身の行動様式への因果効力を無効化することができるからである。(7月5日プラユキ師ツイッター@phrayuki)


こういうはあちゅうさんの直感的な理解、例外はあるとしても個性的ですね。
ここでの私の発言で触れている「行動を規定する下位次元のアクション群」を分類するとこういう感じになります。
who
why
how
what
where
上に行くほど抽象的になります。
十二因縁の輪は抽象度の高い方に向かって回り、具体度の高いものが規定されていく構造になっています。
私たちは概念をいろんな要素を持ってきて組み立てます。
部品を持ってきて車を組み立てるのとちょっと似てますね。エンジンとバンパーとドアと……って持ってきて車を組み立てる。
性別や立場や考え方、イメージを寄せ集めて自我をつくる。
特に言葉の力は大きいです。

(続きます)

生きとし生けるものが幸せでありますように。

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しの2012

Author:しの2012
女性。
ヴィパッサナー瞑想に取り組んでいます。

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