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アチャン・ニャーナラトーの日帰りリトリート4

(続きです)

「信」のことをサッダーと言いますが、これは「人生や心のあり方に対する理解」といってもよい。
極限状態になった時、人生のあり方や心に対する理解があるかどうか。
あるは、死に対する理解と言ってもいい。
死ぬとはどういうことか、死んだらどうなるのか、そういう理解がないとパニックになってしまう。
最悪、助けられなくて死に至ることになったとして、このような理解がないと、それは、大変なことになってしまうでしょう。
しかし、彼らには最低限の何かしらの理解があり、だからパニックにならなかったのだと思います。

閉じ込められた少年たちとコーチに「心を扱うトレーニング」「人生に対する理解」この二つがあったのが、パニックにならずに助かることができた理由と言っていいでしょう。

この話は極限状態でのことです。
今朝私が眺めながら歩いてきた景色、この日本はとても平和です。
洞窟の事件は特殊な状況ですが、しかし「自分に力があるのか?」と自分に問うのは、現代社会に生きる私たちにとっても大きな問題なのではないか、とBBCのインタビューに答えました。

心にどう付き合うかというトレーニングは「さあ、今!」と言われてもできないのです。

こうやって平和で元気で、できる時にできることをやらなければいけません。

そしてできることとは、ありきたりですが「自分を強くする」ことです。

昔、お寺の先輩に「自分を強くせよ」と言われた時は「強い」という言い方が嫌だったんですね。なんというか、「弱肉強食」―強いものが勝ち弱いものが負ける競争とか、そんな感じがして。
そんな感じが私の表情に出ていたんでしょうね。先輩はそのとき「心を純粋にしなさい」と言い換えしてくださった。
そのときはそんな印象でしたが、出家して30余年、今はっきり思うのは「強くならなきゃいけない」ということです。

この「強さ」とは、誰かに勝つとか、競争や争いに関わるものではありません。
生きている途中で、微妙につらい思いをする―仲良くしたい、でもうまくいかない、誤解されてしまった―そうやって生きているときに「心を強くする」というのは、正しいんです。
この言い方が好きになれるかどうかは、人によるでしょうけれども。
ごまかしがきかない、っていうことなんだと思います。
生きている間、自分たちがどうあるのか。
トレーニングしているのか。
それとも自分をほったらかしにしているのか。

「自分のことなんだから、自分は自分のことを分かっている」と思っておられるかもしれませんが、日常ではなかなか触れられない自分に、「Noble Silence」の中でもう一度出会うでしょう。

(続きます)

生きとし生けるものが幸せでありますように。
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プロフィール

しの2012

Author:しの2012
女性。
ヴィパッサナー瞑想に取り組んでいます。

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