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生飯をする

昨日取り上げた『三国伝来 仏の教えを味わう インド・中国・日本の仏教と「食」』から引用する。

中国のお寺で食前にさまざまな偈を唱えるという説明の後である。

以上を念誦しおわると、侍者という役割の僧が飯を仏前に供えます。供えられた飯は餓鬼や鬼神への施しとし、食後に仏殿の外に設置された施食台に置いて鳥などに施します(食前に施す場合もある)。これを出食(チューシー)といいます。
「出食」とは「生飯」・「散飯」・「三飯」・「三把」とも言いますが、いずれも鬼神に飯食を施すことを意味します。日本の場合は一人ひとりが自分のお碗(ママ)から七粒の米粒(日本ではこれを「生飯⦅さば⦆」と呼んでいます)を右手の薬指と親指でつまんで取り出し、左手の上で右回りに二回半周して空じるという作法を行いますが、現在の中国では大抵の場合、予め取り分けておいて侍者が代表して施食を行います。(「コラム1 中国仏教の精進料理と食事作法」吉田叡禮 p116より)

日本のお寺でも、食事の前に数粒の米粒を自分の食から取り分けて施食するというのは行われている。
「コラム3 禅の修行と食―その心と作法」山﨑紹耕 からも引用する。

「生飯をとる」という行為は、自身の食糧の中から餓鬼や無縁霊に施しをするという事なのです。この事自体は大乗仏教の中にある「自利利他」の精神、功徳を回らせるという考えに則ったもので、決して悪いことだとは思いませんし、むしろ釈迦の弟子である我々僧侶は率先して行うべき行為だとも言えるでしょう。(p190)


長々と引用してしまったが、似たようなことを私ももう4、5年やっている。

グリーンヒルにまだいた時、当時講師だった大友さんに「食べすぎてしまって、なかなか食べる量が減らせないんです」と相談したことがあった。
そのときに「食べる前に、よそったごはんからほんの少し取り除けて、その取り除ける量を増やしたらどうだろう」と提案されてやってみたのがきっかけだ。
大友さんの主旨としては、毎日少しづつ食を減らしていくという事だったと思うが、ちっとも減らすことができずに、それでも(米飯は食べないので)おちょこ一杯ぐらいのおかずを(施餓鬼の分…)と思いながら取り除け続けている。

この取り除けたおかずが、実際に六道のうちにある餓鬼の飢渇を癒しているという気持ちは正直あまりないのだが、おかずを取り除けようとする自分の心を観察するのが面白い。
肉ときのこの旨煮から、しいたけは気前よく出しても肉を出しづらいとか、納豆は後で器を洗うのが面倒だから出さないとか、(出した方がエライ)という判断が自分を縛ろうとしているとか、大変小市民な葛藤が毎回発生する。
いやしんぼな私にとっては、ちょっとした学びのタイミングになっている。

食事の量は、全然減っていないが。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
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しの2012

Author:しの2012
女性。
ヴィパッサナー瞑想に取り組んでいます。

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