FC2ブログ

記事一覧

独覚の友人

趣味の友人とおしゃべりしていた時のこと。
「レタス」を立ち上げた後でテンションが上がっていて、普段はそこではあまりしない瞑想の話を少ししたところ、一人の友人が変なことを言い出した。

「しのさん、サルトルの『嘔吐』って読んだことありますか?」
「いいえ、ありません」
「私、モノが物自体として見える時があるんですよ」
「え?」
「人って、見た瞬間モノに名前をつけているでしょう?それをつけないままに見ている状態がたまにあるんです」
そりゃすごい。
本当だったら、それはダンマを見てるってことだ。

「そうやって見えるのっていつから?」
「そう見えているのがわかったのが二十歳の頃かな?でももっと幼いころから頻繁に見えていて、不思議だけれど面白い状態があるなと思っていた。サルトルを読んで、あ、これは自分と同じ状態だと……サルトルと直接話したわけじゃないけれどね。
『ものごころ』がつく前は、世界は誰にとってもこういう見え方をしていたんじゃないかな。
でも年をとってだんだん見えづらくなってきた。
ひどくくたびれた後とか、一目見て何か分かりづらいもの、ぐにゃぐにゃしたものを見るとなりやすいけど、でも1~2分ですよ。しばらくその見方を楽しもうとしてても、すぐ消える。
わからないモノだったのが、木や風景になってしまう」

それ、眼識から不苦不楽受が生じて、でも想(サンニャー)に参照が起きてない状態じゃないのか。
(参考:色(感覚器に刺激がある)→受(感覚)→想(感覚への意味付け)→行(反応)→識(経験の蓄積))

それを体験するって、ノンデュアリティの本とか『わかっちゃった人たち』に出てくる「無我の一瞥」に近いんじゃないの?
グリーンヒルでよく言われていた「思考を停める」ってまさしくこういうことでしょう。

すごーい。

(続きます)

生きとし生けるものが幸せでありますように。
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

しの2012

Author:しの2012
女性。
ヴィパッサナー瞑想に取り組んでいます。

カウンター

ブログリンク