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『ブッダのサイコセラピー ―心理療法と“空”の出会い』

マーク・エプスタイン『ブッダのサイコセラピー ―心理療法と“空”の出会い』春秋社

ブッダのサイコセラピー

著者は精神分析家、瞑想家。医学博士。ハーバード大学並びにハーバード・メディカルスクール(医科大学院)卒。アメリカにおけるヴィパッサナー瞑想の拠点IMS(Insight Meditation Society)の設立者ジャック・コーンフィールドとジョセフ・ゴールドシュタインに師事。現在はニューヨークで瞑想とサイコセラピーを行っている。瞑想と心理療法をつなぐ著書多数。

ヴィパッサナー瞑想と現代の心理療法の共通点と相違点を、両方に深くかかわった著者の立場から症例を交えて具体的に指摘する。
瞑想と心理療法の二つを相補的に活用することで、人間はパーソナリティを深く開発し、より幸福になることが可能だという提言の本。

仏教徒の視点で「ブッダの提示した方法は現在行われている治療をすべて凌駕する」とか、医家の視点で「各種の瞑想は治療に有用であると実験によって計測できる」とか、どちらかの世界に他方が包括される立場で書かれた本は多い。
しかしこの本は非常に中立的なのが特徴だ。
心理療法で解決できなかった苦しみを瞑想実践で癒されたり、瞑想を長年続けていても盲点になっていた自分の問題点を心理療法を通じて発見したりする友人や患者が数多く紹介されるし、その症例を扱う著者の視点も平等であろうとする意識が強く伝わってくる。
そのあたり、上座仏教寄り価値観ではあっても、再現性のない現象は信じられない現代人の自分には興味深かった。

それに、法(ダンマ)として学んだことを心理学の方から光を当ててもらって、理解しやすくなった部分もある。
例えば、こんな定義だ。
「仏教は悲観的な宗教であるといわれていますが、実際には、とことん楽観的です。自己愛に降りかかるあらゆる侮辱を乗り越えることができると、ブッダは説いているのです。そこから逃避することではなく、守らねばならない『自己』があるという信念を根こそぎにすることで、それが可能になります。四聖諦の教えは、その可能性をはっきりと記述しています。それは、西洋的な意味での宗教というよりは、心理学的な救済の実践的青写真を含む、現実のビジョンなのです。」(p64)

「『苦しみ』は、ブッダがドゥッカ(dukkha)といった言葉の慣用的な訳語ですが、それだけではその言葉の実際の意味を正しく伝えていません。詳細なニュアンスを伝えようとするならば、『全体に沁みとおった不満感』というような訳になるでしょう。」(p65)


また、瞑想と心理療法が併用されるべき根拠も納得できるものがあった。
「両親あるいはいずれかの親と関係がこじれたり、子どもの準備ができていないうちに成長を強制されると、その人の中に痛烈な空虚感が残ることになります。その傷は、人生初期の個人的な体験としては認識されず、自分自身の中にあるものとして認識されます。『基底欠損』という専門用語で呼ばれるこの傷は、瞑想中に身体的な形で思い出されることがよくあります。」(p238)
「それは内的な空のようなものとして体験されます。同じ空という言葉であっても、仏教の空とはまったく違うものを意味しています。瞑想の中で最初に掘り起こされるのがまさにこの空虚感です。この空虚感は、瞑想全体が影響されないという条件の下で、心理療法による特別な注意を必要とします。」(p239)

この『基底欠損』という概念、まさしく自分の問題だと思ったのだが、著者はこれは西洋人独特の問題であるとする。
ダライ・ラマが初めて異文化交流会で「自尊心の低さ」という概念に出会い、そこにいる西洋人全員がその問題をかかえていると知った時信じられない様子だたとか、ソギャル・リンポチェがチベットでは自己肯定感が身についていて当たり前で、それがなければ馬鹿者だと思われるといったエピソードが紹介される。
しかし、私の実感では、少なくとも今の日本においてはこの基底欠損、自尊心の低さが幸福感における重要な問題になっているように思う(原著1995年、訳書2009年刊行)。

幸福や人格的成長を追求する人にとって、心理療法と瞑想の併用は相乗的効果が見込めるということが納得できる本。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
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しの2012

Author:しの2012
女性。
ヴィパッサナー瞑想に取り組んでいます。

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