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眼鏡っ子因果論

ふとした時に、因果論について腑におちる所があった。

「思った通りにはならない。やった通りになる。」そういうことだ。


プラユキ師の講演や様々な仏書で、仏教は宿命論ではなく、かといって偶然に現象が起きているというのでもなく…と幾度となく聞いて読んではきたが、それでも「真面目にブッディストをやっているんだから、ちょっとおまけしてくださいよ」的な戒禁取のせいで、スッとそのままに頭に入ってきてなかったのだ。

「思った通りにはならない。やった通りになる」
字面だけ見ると「そんなの当たり前じゃないか。何を言ってるんだ」であるし、「いやそんなことはない。一生懸命に正しいことをしても報われないこともある」と反論したい人もあるだろう。
こうやって書いてみると、やはり腑におちた『何か』と微妙に乖離している部分もあるなあ……と我ながら思うし。

お分かりになっている方は、(ああ、しのちゃんもやっとわかったか)と静かに微笑まれるところであろう。

これ以上は野暮だと思うが、忘れないよう自分のために少し書いておこう。

不安になったり、怒ったり、あるいは喜んだり希望を持ったりするのは「思った通りになってほしい」からだが、現実は自分の貪瞋痴にもとづいた思考とは無関係に、なるべくしてなっている。
しかし我々はその結果をつねに「貪瞋痴メガネ」を通じて見ている「眼鏡っ子」なので、目の前の現象や結果に対して常に不満(なんや、思ってたのとちゃうなあ……)を持っている。

自分が今起している行動が、これより後の自分を規定する。
時系列にしたがって、1130につくり出したものを1200に食べはじめ、1230に食べたものが1300の自分をつくり、1330の行動をつくり出す。
それは全て「法」に従って粛々と進行していて、逆流はしない。
生まれた人は刻一刻と死に近づいている。
その途上、常に変化し続けている。

素晴らしいイメージを持つのは(悟った自分、とかね)無意味ではない。「素晴らしいイメージ」の記憶が、その後の行動によって意味づけられるだけ。
どんな思考も行動も「なかったこと」には決してならない。微細なもの、激烈なもの、それぞれに私に影響をのこしている。

「思った通りになってほしい」というのは「最善の結果が欲しい」ということだが、最善の行動ができるまでは最善の結果はこない。
でも、ゴルフでだんだんホールにボールを近づけていくように、ちょっとづつ改めていくことはできる。んじゃないかな?

今日書けるのはこの辺まで。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
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プロフィール

しの2012

Author:しの2012
女性。
ヴィパッサナー瞑想に取り組んでいます。

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