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O比丘2

(続きです)

話してみると昔通りの関西弁で、ちょっとユーモラスな語り口、すぐになじんだ。
一緒に修行をした仲間というのはありがたいものである。

比丘と本間先生の会話から、耳に留まった話題を皆さんと分かち合いたいと思う。

*****

「五戒を守る」ということを、自分に問わなくてはいけない。

アプローチによっては戒禁守(かいごんしゅ)になってしまう。「これさえやれば大丈夫」という気持ちは戒禁守ではないか?与えられたものにしがみつく心だと、それは戒禁守でしょう?
戒禁守と疑(ぎ)と有身見(うしんけん)を取り去れば悟り(預流果)だといわれる。
では「戒禁守とは何か?」「今の自分のどの部分が戒禁守なのか?」を自分に問い続けなくてはいけないのではないか。

「五戒を守る」戒を守ることが、律を守ることと同じではいけない。
それはつまり、外から決められたルールを守れば怒られない、ひどい目に遭わないから大丈夫という認識ではないということ。
五戒の内容が自分の一部となること。
「盗むことが決してできない性格」のような状態になって、初めて戒を守っているといえるのではないか。
「嘘をつく」ことなど、本当に嫌なことで、そんな可能性があるだけで身震いするような感覚が自分の中に湧き上がってくる。嘘には耐えられない。
それは「嘘をつくのは悪いことだから、できるだけやらないようにしている」とはレベルの違う話なんじゃないか。
火傷をした経験のある人は、焼けた鉄を掴んだりはしない。
戒→定→慧といわれる、三学の基本の「戒」をどのように守っているのかもまた、自分に厳しく問われなければならないのではないか。


「自分が本当にやりたいこと、自分が本当はどのようにありたいのか」と突き詰めて考えてゆく。
「~しているときの自分は、好きだ」
「~できた自分を誇りに思っている」
それを突き詰めてゆくと(それがどういう特質なのかは人によるだろうが)、自分の持つ「美徳」が分かってきて、それを生かす道を歩みたいと思うはずである。
しかし、そういう自分の行いを「偽善じゃないの」「そういう思いって『慢』じゃないの」と批判する精神も同時に持ち続ける必要がある。


瞑想さえしていれば答えは与えられると思っていたが、その瞑想『さえ』が戒禁守だという指摘。
「人間とは何だ」「世界とは何だ」という疑問を四六時中持ち続け、与えられる答えを求めるのではなく、自分でチャレンジし続けなくてはならないのではないか。

*****

短い時間だったけれど、とても刺激的な会話を聴かせていただいた。

それに、O比丘がどこにいても「寛いでいる」姿、「今いる場所からどこかへ逃げたい」という俗人のバイブレーションが感じられないことを拝見して、大層癒される思いがした。

サンガと法友のありがたさを感じた一日でした。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
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プロフィール

しの2012

Author:しの2012
女性。
ヴィパッサナー瞑想に取り組んでいます。

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